で、何が問題なの?

イヤ、もちろん法律で駄目だと決められてるんでしょう。労働者を本人の意思に反して不当に扱っちゃイカンと。確かにここ数年、悪質なケースが話題になりました。けしからんという感情を持つのはわかります。私自身も『技術者の値段』で、このような二重派遣を生業とする名ばかりのシステム開発会社を批判的に書きました。ただソフトウェア業界ではこのような形態でプログラマが現場で仕事するのは、もう何十年も前から普通に行われていた事だったりします。だから「え!?それっていけない事だったの?」というのが、大企業も含めてこの業界にいる大半の人達の正直な感想だったと思います。

わざと挑発的な書き出しにしてしまいました。もちろん駄目なもんは駄目というのはわかります。しかし私があえて誤解を恐れずに言いたいのは「法に違反している事自体が問題なのか」という点です。「何も問題ないよね?」と言いたいのではなく「問題の根本はどこですか?」と問いたいのです。

例えば偽装請負ですが、派遣の許可を持っている会社なら何も問題ないですか?それなら会社が何割マージン取ろうが、残業時間が何百時間だろうが、派遣先の社員からいわれの無い不当な扱いを受けようが構いませんか?
もしくは国会で法案が通って明日からは違法でなくなれば、今文句を言ってる人たちは、それなら無問題だと黙るんですか?

私が問題視しているのは技術者個々人の労働環境です。無茶なスケジュールを押し付けられ、徹夜や休日出勤を当然のように強制され、リリース間際の仕様変更や自分に非の無い不具合などの為に管理職連中やユーザーから責められるような事態は、会社間の契約が法に触れていたから起こった事なのでしょうか。

システム開発は家作りに似ています。私がよく言っている例え話です。大手ハウスメーカーは顧客の要望に沿って設計図面を書きます。それを元に下請けの大工や左官屋や電気工事屋に発注をして、実際に建築を始めます。この段階では大手メーカーは各下請けの仕事の進捗を管理して、顧客にその状況を伝え、問題や遅れがないか確認するのが主な仕事です。
ここで顧客であるあなたが建物の進み具合を見学しに建築現場に行ってみたら、若い大工見習いの兄ちゃんが、かったるそうにチンタラ仕事している姿を目にしました。オイオイもっと真面目にやってくれよ、と一言注意すると、その兄ちゃんは『俺は○○工務店に雇われてんだからお前に指図される筋合いはねぇ』と。そこであなたが取るべき態度は?

顧客であるあなたは、彼に対して何の文句も言う権利は無い、というのが法律です。

どんな大企業でも大きな案件の全てを常に自社の技術者だけでまかなうのは不可能です。自然と他社の技術者の応援を頼まざるを得なくなります。そのようなニーズに答える為に中小システム会社の存在価値があります。さらにその下請け一社だけでまかなえなければ協力会社にも応援を要請する事になります。そのようにして集められた技術者達は一致団結して顧客の要望に答えるべく、より良いシステムを開発する為に仕事をします。そのようなチームでは皆が仲間意識を持って同じ目標に向けて働くし、誰がどこの会社からどういう契約でやって来たかなんてどうでもいい事です。

私も業界に入ったばかりの頃は色々な現場に派遣させられました。その当時の私の頭にあったのは、いかにして自分のスキルを上げて一人前のプログラマとして成長するかという一点だけでした。会社の規模やネームバリュー、ましてや契約形態がどうのこうのなんて、現場にいる私には関係ありません。ただの素人に勉強させてくれるどころか給料まで貰えるなんて、感謝こそすれ、文句なんて出てくるはずもないです。

今となっては立場上、常駐という形態の仕事は受けたくても受けられなくなってしまいました。もう十数年も受託の仕事しかしていません。ある意味ではスケジュールや人材のアサインなどこちらの裁量で自由にできるのは楽なのですが、何と言うか刺激がないんですよね。色々な会社からやって来たプログラマ同士が切磋琢磨して開発に携わる、あの現場の緊張感というか。初めて出会う技術者の、例えばエディタを使いこなす鮮やかな手さばきに『おお〜っ』と感動するあの新鮮さを体験する機会が全く無くなってしまいました。短期間でいいから開発現場に常駐して働きたいなぁ、と懐かしく思う事があります。

違法な契約だと祭り上げて告発や問題提起をする事がいけないと言っているのではありません。というか法的には正しい事なんでしょう。そこを責めたいのではありません。むしろそんなビジネスモデルだけしかない、名ばかりのシステム開発会社はこの世から無くなって欲しいとさえ願っています。そうではなく、自分がまともな職場環境に付けないのは自分の能力不足ではなく違法な事をしてる会社のせいなんだと訴えておいて、そのくせ、じゃああなたはどんな能力を持ち合わせているのですか、という問いに対して主張できない人達の甘えの構造はどうなんだろう?という点に疑問を感じるのです。